無作為アート写真

カメラを持って散歩している時など、ついシャッターを押してしまうということがあるのですね。注意深い人はそんなことないのかもしれないけれど、私はあります。はい。

トートバッグにカメラを入れているのですが、カメラを出すときというのは、撮りたいモノがあるときなので、カメラは手探りで、目は被写体の方を見ているのですね。

で、まあ、取り出して構える前にシャッターを押しちゃうと、そういうコトですね。

今日の写真はまさしくその「あっ、シャッター押しちゃった」という写真。

その時は、当初見つけた被写体をその後に撮っているので気にしていなかったのですが、家に帰ってPCで見ていて「ん、コレなんだかいいんじゃない?」と思ったのです。

荒木経惟さんが「赤裸写真」というのをやってたのを思い出しました。

かなり昔のことで記憶は曖昧ですが、カメラを首にぶら下げて歩きながら、テキトーにシャッターを押す。全てをプリントして投げる。表になったプリントを集めてまた投げる。最後に表になった1枚を選び、これを赤裸写真と呼ぶ。こんな感じだったと記憶しています。

無作為こそが最高の芸術だとする芸術哲学があります。

作者の作為や意識があってこそ芸術だし、意識や作為が作者の価値であるのはいうまでもないことだと思いますが、無作為にこだわる赤裸写真などもひとつの芸術的コンセプトですね。

「みるものが芸術をつくる」と言ったマルセル・デュシャンという芸術家がいます。市販されている便器(小の方)にサインをしただけのものを「泉」というタイトルで作品として物議を醸した人。

批判が多かったのですが、こんな評論もあります。

「彼が自分の手で『泉』を制作したかどうかは重要ではない。彼はそれを選んだのだ。彼は日用品を選び、それを新しい主題と観点のもと、その有用性が消失するようにした。そのオブジェについての新しい思考を創造したのだ」

本来スナップ写真といえども偶然ではなく計算して撮影しています。面白いモノを見つけ、光を読み、構図を決めて、主体の動きを計算して、シャッターチャンスを待つのです。

スナップ写真教室ではそのようなお話をしますが、「あっ、シャッター押しちゃった」的無作為のボケやブレのいわゆる失敗写真も面白いのだなあと再認識したのです。

無作為こそが最高の芸術だとする芸術哲学からすれば、今日の写真も芸術たりうるのだ・・・と、まあ、今日はこんなお話でした。

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